淡々と、目の前のことを

時間とは、生きるということ、そのもの

この言葉の意味について深く考えさせられたのは、2023年の正月のことだった。毎年この時期は仕事を完全にストップし、ゆっくり読書をしたりして過ごすのだけど、今年はふとミヒャエル・エンデの「モモ」が目に止まった。

エンデは私が子供のころから愛してやまない作家だ。特に好きなのは「はてしない物語」。
父親と二人暮らし、ちょっと内気で夢見がちな主人公バスチアンに自分の境遇が重なって、物語と同じくえんじ色で装丁された分厚い本はいつだって枕元に置いていたし、映画も数えきれないほど繰り返し見た。

はて「モモ」に関する記憶はどうだったかというと、青白い顔でタバコの煙を燻らせながら、人間の時間を盗む灰色の男たちのイメージが、まっさきに目に浮かぶ。
想像力豊かだった幼い私には、そのインパクトがあまりにも恐ろしすぎたのだろう。映画も本も一度見たきりで、小さなモモという女の子と「時間」についての物語ということだけは覚えているけれど、登場人物や彼らの発した言葉のことなど、すっかり忘れてしまっていた。

そんな私の目にこの本が映ったのは、ちょうど年末にかけて自分の時間の使い方を見直す機会があったからかもしれない。

ぬくぬくと温かい毛布にくるまって物語を読み進めていくと、モモの友人である道路掃除夫ベッポのこんなセリフが目に止まった。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えていはいかん、それはわかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもつぎだけのことをな。するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどるもんだ。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

「モモ」by ミヒャエル・エンデ

私はベッポのこの言葉を、不思議にも覚えていた。
なぜかというと、子供の頃の私はこの考えに全くもって同感できなかったから。人生において大事なものに「楽しさ」や「心を動かされること」がある私にとって、「淡々と目の前のことをやる」ベッポの生き方は、非常に無味乾燥でつまらなそうに映ったのだ。

「そんなやり方で楽しくなんかなれない」
「ベッポはおじいさんだから、そんなにゆっくりやってられるのよ」
と、当時の私は小さな反感を持ったのだった。

何十年も経って、改めてこの言葉を見て気づいたこと。それは、ベッポは他でもない「マインドフルネス」の話をしていたということだ。

今、この瞬間に集中する。
目の前にあるものに、心をこめる。
そうすることで、楽しくなってくる。

時間を題材にした物語である「モモ」の中には、色んな考え方、生き方の、大人や子供が登場する。「この先自分はどうなってしまうのだろう」と不安がる観光ガイドのジジ。「今はあの頃とは何もかも変わってしまった」と急かされるように生きる酒場のニノ。

時間どろぼうに時間を盗まれ、心の余裕が無くなった人達は皆、「未来」や「過去」を生きている。不安に押しつぶされそうになって、どうにか安心しようとさらに「頑張る」のだけれど、やればやるほど心はすり減って、ますます時間を感じられなくなっていく。ああ、まるでここ最近の私のよう。

「時間とは、生きるということ、そのもの」

それは、エンデがこの物語をとおして、子供というよりは大人たちに届けたかった言葉なのかもと思う。もしくは、大人の中で今も生きている子供たちの心に。

時間は本来、透明で色がついていないものなのだ。退屈で忙しないものだと思えば、それは灰色の男たちのように、色あせた時間になる。一瞬一瞬に集中して、じっくり味わうことが出来るなら、それはカラフルで生き生きとした時間になる。やっていることが何であろうとも。

「どんな時間にするのか」選んでいるのは、他でもないこの私。目の前の時間をどう生きるかで、私の人生が創られていく。「今日という一日をどういう時間にしたいのか?」という問いは、「私はどんな人生を生きたいのか?」と同じ意味を持つ。

どちらにせよ、私が生きることが出来るのは、過去でも未来でもなく「今、この瞬間」だけなのだ。

時には、淡々と目の前のことを。
長い道を歩こうとしている時ほど。

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