【10/19(土)】Re:Book~ひとつの物語から始まる対話の空間~「不確実性(Uncertainty)」

自分の「当たり前」に気づくことの大切さ

数年前、京都のあるお寺の和尚さんから「”当たり前”の反対は”有難う”なのです」と言われた時、目の前がぱああっと開いてくような感覚がありました。「当たり前」をたくさん持っている時のじぶんは、「ありがとう」が減っていく傾向がある。

じぶんの「当たり前」に気づくと、発見して嬉しくなると同時に、なんだか「驕っている私」も垣間見えたりして、やるせない気持ちになっちゃうのですが、どちらかというと得られるもののほうが多いなあと感じています。

この記事では二つの視点から、「当たり前」について書いていきます。

「当たり前」と「感謝」の関係性

まずは「じぶんの”当たり前”に気づくと、感謝が生まれる」ことについて。

2020年にコロナが流行してから、日常の様々なことが「オンライン」になり、これまでの人間関係の「境界線」を越えて、色んな人と出会った人が多かったのではないかと思います。わたし自身も例外ではなく、特に2021年に入ってからは「境界線」は国境を越えて、グローバルの学びの場に参加する機会が増えてきました。

色んな国の人と、一つの場所に集まるときの面白さは、じぶんの「当たり前」に気づく瞬間がたくさんある、ということ。例えば、ちょっと前からアメリカのコーチングスクールに通い始めたんですが、最初にウェブサイトから問い合わせをしたとき、数日経っても、うんともすんとも、返事が無かったんですね。「送信出来てなかったのかな。う~む、どうしよう」なんて考えてたら、ちょうど一週間後に、いたって普通に、事務局から最初の問い合わせへの返信が返ってきた。

「なるほど、そういうシステムなのね」と、思わず苦笑しました。フランスに住んでいた頃、基本的にどんなサポートも日本のスピード感を期待してはいけない、という教訓を得たことを思い出したりして。同時に、じぶんの中で「返信はすぐ返ってくるもの」かつ「すぐ、とは1日から最大でも3日」が当たり前になってたんだなって。

そのことに気づいたら、日本での普段の仕事のやり取りとか、ちょっとサポートが必要でどこかに問い合わせて、1日と置かずに返信が返ってくるときに、「ありがたいな~」ってじんわり感じるようになりました。極端な話、もはや「日本語で会話できること」そのものが、楽だし、ありがたかったりする。

届いたのかな、とか、いつ返ってくるのかな、とか心配しなくていいし、知らないうちに「安心」させてもらってたんだと。もちろん、国籍で全てをくくれるわけじゃなくて、人によって違いはあるだろうと思うんですけど、やっぱり日本人の傾向として「気配り」ってどこかに根付いている印象があります。

普段、「空気があること」に感謝して生きてる人って、あんまりいないと思うんですね。しいて言うなら、水の中に潜って呼吸が苦しくなった後には、「息が出来るって素晴らしい」と感じるかもしれない。でも、当たり前のようにそこにあるものに対して、私たちは「ありがとう」とは思わない。

だから「あること」に気づくには、「無いこと」を体験する必要があって。例えば、シャワーからちょろちょろとしか水が出ない異国の地を旅した後は、日本の自宅で「温かいお湯が出るって最高!」と嬉しくなるし、日曜日のお昼にお店が閉まってしまう南の国を旅した後は、「24時間いつでも買い物できるってスゴイ!」と近所のコンビニに感激してしまう。

自分の中で、そこにあるのが「当たり前」だったものの存在に気づく。そうすると、今までは目にも留めなかった色んなことに、「ありがとう」の気持ちが生まれてきます。

「感謝」って、幸せに生きていくための大切な要素のひとつ、と言われているのですが、「これって当たり前じゃなかったんだ」に気づくとき、なんだかもう、日々の生活だったり、誰かとの関係が、とても素敵なものに見えてくる。目の前の世界は何も変わらないんだけれど、じぶんの内側の世界に変化が起きて、世界を捉えるフィルターがアップデートされるような感覚です。

「当たり前」と「才能」の関係性

じぶんの「当たり前」に気づくことで見えてくる、もうひとつのものは「才能」。

わたしたちが普段、誰かに対してイライラしたり、モヤモヤする原因のひとつは、自分が「当たり前」だと思っていることを、相手が崩してきたときだったりします。例えば、企業に勤めていた時のわたしは「相手の気持ちや状況に配慮して接する」のが当たり前だと思っていました。なので、それをやらない上司や、同僚に、「なんでやらないの!」と、プンプン怒っていたわけです。

わたしにとっては「相手の立場にたって世界を見る」ことは、あまりにも当たり前だったので、誰にでも出来ることだと信じていたし、出来ない人がいるなんて考えもしなかったんです。で、このウェブサイトでも扱っている「ストレングスファインダー」を学んでいくうちに、自分が当たり前のようにやっていたことが「才能」なんだと気づいた。誰にでも出来ることではないのだと。

それからは相手に対してモヤモヤするのではなく、「これはこの人の得意分野ではないんだな」と理解できるようになり、代わりに「じゃあこの人の得意はなんだろう?」と考えるようにもなりました。私たちは誰でも、「得意なこと」と「得意じゃないこと」があって、完璧な人はどこにもいない。

才能って、本当に「息を吸う」レベルで、当たり前にやっていることが多いので、中々じぶんひとりでは気づくことが難しくて。でも、それだけ自然に繰り出せる、ということは、意識して扱えるようになると、無理なく自分自身や、誰かのために、才能を使っていけるんですよね。

じぶんの「当たり前」を扉にして、じぶんの才能に気づく。いつでも手に入る商品に比べて、「限定品」により愛着が湧くように、自分にしかない才能に気づけると、それがより愛おしくなるし、他の人のためにどんな風に使えるだろうかって、考えることも出来ると思うのです。

じぶんの「当たり前」に気づくためには

じぶんの持っている「当たり前」に気づく瞬間って、色々あると思うのですけど、ひとつは「境界線」を越えた瞬間なのかな、と思います。それはお店だったり、コミュニティだったり、海外だったり、どんなことでもよくて、とにかく「いつもとは違うどこか」に足を踏み入れた時に気づきやすい。

そのときに起こる、イライラ、モヤモヤ、も含めて、じぶんの「違和感」をキャッチするのってすごく大事で。違う、と感じるからには、「こうあるべき」とか「こうなるはず」という、期待感のようなものがそこにはあるはずだから。

それから、個人的には、ストレングスファインダーというツールもまた、じぶんの無意識レベルの「当たり前」を発見するのに、大いに役立っていて。じぶんがいつでも普通にやっていることに対して「それってどういう感覚?どうやってやってるの?」って周りの人に聞かれることで、じぶんの「当たり前」の輪郭がどんどん見えてくる。

「当たり前」を、英語に訳すと出てくる言葉の一つに「Obvious」があります。「Obvious」とは、明白なこと、誰にでも当然わかること。だからこそ、わざわざ説明することが少なくて、相手も同じ世界を見ていると信じてしまったりして、すれ違いが起きたりする。

「あなたの”当たり前”ってなに?」
そんな質問から、会話を始めてみるのも面白いかもしれません。じぶんとは違う、相手の「当たり前」に触れるとき、この世界の豊かさに、その優しさに、気づけるような気がするのです。

ーNothing is as invisible as the obvious. / Richard Farson
(明白なことほど、目に見えないものはない)

「普通は~」という台詞がでるのは、ストレングスファインダーのどの資質? 「感性」とは見えないものを見るセンスである